車椅子旅行は楽しい!

パッケージ旅行とは違う、「個人でプランを立て」「自由な発想の」「安上がりな」「車椅子旅行のススメ」
「車を運転している時は、自分が左半身不随であることを忘れられる」と言う、20年前に脳出血で倒れ車椅子生活者となった夫との車椅子旅行は、幸せの宝庫です。

車椅子の遍歴とWILLとの巡り合い(中編)

 「中編」は (エピソードそのからです。
 ニュージーランドの北島に車椅子でも見学出来るルアクリ洞窟がある事を知り、NZのユースホステルの完璧なまでの心配りと快適さを十分味わい、「来年はクライストチャーチやマウント・クックのある島に行こう」と幸せ気分で羽田に到着。NZと日本の時差は1時間。なので、早朝出発の機内でゆっくり昼寝を満喫した信ちゃん。快適気分で夕刻、羽田に到着しました。ところが、ところが・・・驚きのエピソードその二が待っていました。
(エピソードその
 現在、自分の電動車椅子に乗ったまま飛行機の搭乗口まで行き、目的地に着いた時に搭乗口まで自分の電動車椅子を運んで貰う。これが基本です。去年の5月に長崎大村空港から対馬空港までのように、プロペラ機で飛ぶような場合などの例外もありますが。
 あの時は何の疑問も心配も抱かず、羽田に到着。航空会社が用意してくれた車椅子に搭乗口から乗り、即トイレに。スタッフの方に車椅子を押してもらえるので、私もゆったりとした気分で荷物をピックアップするためのターンテーブルへと向かいました。その時です。ANAのグラウンドアテンダントの女性がしずしずと信ちゃんのご愛用の電動車椅子を押して登場したのですが、その前にもう一人が私たちに駆け寄り開口一番「申し訳ございませんでした」と深々と頭を下げました。
 キョトンとする私たち。
 そして、眼のまえに現れた信ちゃんの電動車椅子。なんと左側のブレーキ・レバーが、見事に折れていたのです。左半身不随の一級障害者の信ちゃんの電動車椅子のレバーは、右はそのままですが、左は右手を伸ばして調節できるように、右よりも20cm近く長くなっています。その左レバーが見事に根本のわずか上で「折らて」いたのです。
 スチール製レバーが、ですよ。
 それはもう、二人でびっくりしました。レバー以外、電動車椅子には何の問題もなく、補償請求書類を書き込むので多少時間が取られましたが、迎えに来てくれた信ちゃんの会社の社員をさほど待たせずに、出国する事が出来ました。帰宅してケアマネージャーにルを送り、翌日、Yamahaの電動車椅子担当者に自宅まで来て貰い、前日ANAから貰った書類を渡しました。新しい車椅子を用意すると言われたのですが、信ちゃんはレバーだけ新しくして貰えばいいと答えました。
 何故「レバー」が折たのか?信ちゃんの推理は次のようです。「機内から、NZの荷物がかりのスタッフが見えたけど、誰もがオールブラックス選手のように見事な体格の叔父さんたちだった。日本の電動車椅子のレバーが前後に動く事に気付かず、ひたすら一方向に押したのではないかな」。
 私にはコメントできませんが、確かな事。機内でみたNZ航空のPRビデオ(他の航空会社に比べてトップクラス)はどれもとても楽しく面白かったです。それはそれとして、PRビデオに登場するスタッフの皆さんはいずれも「オールブラックス」の選手に負けない見事な体格の持ち主ばかりでした。

ニュージーランド航空機内安全ビデオ「マオリの神話」編


(エピソードその
 レバーの事はありましたが、NZがとても気に入った私たちは翌年2015年にも北島に続き、南島に行きました。クライストチャーチで大きな地震があり、日本人留学生の方たちが多数亡くなられた2011年の2月からすでに丸4年経っていましたが、街中にはまだ多くの、地震の跡が残されていました。
 NZは旧英国連邦の一員。英国同様に車は左側走行。そこで2度目のNZはレンタカーで回る事にしました。余談ですが、諸外国の多くの車が右側走行なのに、日本は左側走行か?興味がおありの方は、是非ググってみて下さい。お医者様のカルテが今も、ドイツ語で書かれる事が多いのと、関連しています。
 NZのレンタカーの車椅子旅行の唯一の問題点。それは、ドイツ同様、皆さんはきちんと走行スピード規制を守って走っています。ところがところが…。信ちゃんとふたりで最後まで「???」だったのですが、街中は40Km、50Kmなのに、街を出ると即、100KmOKなのです。100Kmですよ。なのでみなさん、街を出た瞬間から100Kmで車を飛ばします。いやあ、あれには「信ちゃん」参りました。
 NZ、そしてNZ人々が障害者に優しい。それを実感したのはまず、私が電動車椅子を車にのせようと「バタバタ」していると必ず、どこかから「助っ人」が登場する事。日本でも最近は、「声をかける」または「じっと見つめる」と手伝って下さいますが、NZでは「目に留まる」と自発的に離れた所から走り寄って手伝って下さいました。次に、これも、県によっては法制化しているようですが、「車椅子専用駐車場」には「専用の許可書」がないと罰金です。では、私たちのような外国人旅行者はどうすればよいのか?
 事前にオンラインでパスポート番号他の情報を記入し料金を払うと、最短「1か月」の「車椅子駐車場使用ード」が貰えます。「カード」は、レンタカー屋さんに送られてきます。2015年にはカード代が31ドルでしたが、今は値上がりしているかな?
 北島同様、南島の旅も順調に進み楽しみ、帰りの飛行機に乗り、しばらくウトウトしていると、アテンダントの女性が通路に跪き、小声でささやきました。
 「お客様、大変申し訳ないのですが、好ましくないニュースをお伝えしなければなりません」
 「はぁ?」私は一瞬、身構えました。
 「お客様の車椅子に不都合がありまして」
 「はい?」
 「ブレーキ・レバーが曲がってまいました」
 私はあやうく、声をあげて笑いそうになりました。信ちゃんが心配そうにこちらを覗き込みます。「レバーが曲がったって」信ちゃん「左の?」私「さあ…」
 羽田に到着後、前年同様の手続きを終え、前年と同じ社員が迎えに来てくれていたので、会った最初に「レバー」を指さしたら、大声でってくれました。
 さて、もっと書き続ける予定でしたが、(中編)はここまで
 というのも・・・


 信ちゃんが1月31日(金)に救急搬送され、入院しました。でした。
 前日の30日の昼、「左目が良く見えない」と信ちゃんが言い出しました。眼をみると、右眼よりも少しむくんでいるようです。すぐにかかりつけの病院に電話をしましたが、20年前に脳出血で入院して以来、ずっと担当して下さる先生(現在・病院長)はお休みでした。寝る前に信ちゃんは再び「左目の半分にモザイクがかかっているみたい」「明日、一番で病院に連絡するから」「信ちゃん、左足が動かない」。それは丁度20年前、脳出血で倒れその後、左半身不随の一級障害者となった時にとても似た症状でした。
 翌日8時半、一番で病院に電話をかけました。これからがあらためて、信ちゃんの『強に神様に感謝です。
 担当医(院長)がすぐ電話に出て下さり、「救急車を手配するからすぐ入院しなさい」と言って下さいました。その5,6分後、救急車から電話があり、20分後には救急車が到着しました。歩けない信ゃんは隊員二人の方に抱かれて救急車にのりました。私もとりあえず思いつくまま、必要であろうと思うものをいつもの買い物カートに放り込み、足りなければ取りに帰ればよいと、アタフタ同乗しました。 
 救急車が走り出し血圧を測ると上は190を超え、下は90台でした。こんな事はこの最近まったくありません。通常、上が130台、下が高くても70台。もうそれだけで信ちゃんが、どんなに辛いかよく分かりました。
 病院に到着してすぐMRIを始めとする検査が始まり、信ちゃんはどこかに連れ去られ、私は入院手続きでバタバタしました。約1時間後、MRI検査を受けて戻って来た信ちゃんの言うことには「以前のMRIはテクノポップだったが、今日のはなかなか斬新だった」「ああそうですか」。どこに居ても、どのような状況でも信ちゃんのSound Engineer魂は健在のようです。「血圧は?」と聞くと「まだ高いが、さっきより楽になった。上が150ちょっとと下がったけれど、下はまだ70台だった」「気分は?」「寒い」。私は慌てて自分が着ていたカーディガンを脱ぎ、信ちゃんの足元にかけました。

 次に、担当の脳神経外科医の先生の部屋の前で15分ほど待たされ、やっと中に呼ばれてレントゲン写真を見せて貰ったら、脳出血で20年前にダメージを受けた右能に、白い大きな点々。脳梗塞ですね」「・・・・あ、はい」
 その後、信ちゃんは点滴をしてもらい、車椅子に座ったままぐったり。私は入院手続きで右往左往で、ぐったり。それからさらに1時間ほど廊下に置き去りにされ、やっと病室の準備が出来、信ちゃんはベッドに収まりました。1時が過ぎていました。
 信ちゃんがつましい(どう考えても、みんなの残り物)のお昼を食べ終わるのを見届け、丘の上にある病院の前のバス停に行き、駅までのバスが日中は1時間に1本しかない事を発見。次のバスが30分後なのを知り、20年前によく歩いた坂道を降りて駅まで歩きました。歳ですねえ。30分以上かかってしまいました。ちょうど自宅へのバスが駅前のロータリーの停留所に居たので、飛び乗った時は2時半近く。面会時間は5時まで。仕方がないのでバス停の前にあるセブンイレブンで肉まんとコロッケ(これが意外とおいしかった)を買い、自宅までの途中にある小さな公園のベンチで食べました。
 信ちゃんに言われた荷物をまとめてすぐに家を飛び出し、バスがすぐ来て、バスの中でチェックすると1時間に1本の病院行きのバスの発車の3分前に駅のロータリーに到着する事が分かりました。、バスを降りて、私は走りました。病院行きのバスの停留所まで。ロータリーの道を50メートルほど。
 病院からの帰りは、看護師さんに「バスがあと5分で来ますよ」と言われて、階段を駆け下り(信ちゃんの病室は2階)無事バスにのりました。その夜の食事は、カップヌードル。結構おいしかったです。
 翌日、信ちゃんの緊急入院を兄に電話をすると、「最近は救急車を呼ぶのも、入院先を探すのもみなさん苦労している」と言われました。救急車がすぐ来て、すぐ入院出来た」は奇跡に近いと、親友にも言われました。
 その夜、信ちゃんから電話がありました。「通常は病院が提供するパジャマを着なければいけないが、『寒い』と訴えたら特別に『自宅で使用しているパジャマを着ても良い』といわれたから、明日忘れないでもってきてね」

 信ちゃんは20年前に脳出血で倒れる1年半前の夏、「脳幹梗塞」で2週間入院した事があります。その時、「ワレンベルグ候群」にかかりました。かなり珍しい病気らしく、担当の先生がインターン生を数人携え、病室にやって来た事がありました。これは、障害のある手足では暑さ寒さを感じる事が出来ますが、障害のない手足では暑さ寒さをほとんど感じられない、不思議な病気です。その後遺症で今も、体温調節に苦労しています。

 二日目の朝は朝ご飯ぬきで、信ちゃん指定のパジャマとその他を持って病院に行きました。病院に着いたのは10時半頃だったと思います。面会は2PMから5PMなので、一度家に戻り、また来ようかとも考えましたが、往復に2時間弱かかるので面倒だと、のんびりと駅へ向かって歩き、普段なら絶対に入らないであろうおしゃれなカフェを見つけて朝食と、デザートにケーキを食べました。2,100円なり。日頃の私ならドキッとする値段です。
 1時間以上、そのカフェでねばり、駅まで歩いてバスの時間を確かめ、ロータリーの端にあるベンチをみつけてしばらくウトウトしながらひなたぼっこをして、再び病院に行きました。入り口で「面会申込書」を書いていると、「院長」の秘書の女性とばったり。「さっき先生から、『ご主人の月曜日からのリビリをセットアップして』と言われたの。よかったですね」と言われました。信ちゃんも「今朝、レントゲン写真を見た『院長』がきて、『リハビリを来週からやるように』と言いに来た」と報告してくれました。
 リハビリが始まってから2週間後の明後日、信ちゃんの退院が正式に決まりました。「脳梗塞」ではあるけれど「初期段階で処置した」という事のようです。
 さて、「『視力』は現在のまま回復はないってことよね。場合によってはもう車の運転は出来ないかも」。そう、私が恐る恐る言うと、信ちゃんは「それならそれでいいよ。もう十分ドライブ旅行は楽しんだし、これからは車椅子で新幹線に乗って一昨年のように、北上に『12万本の桜』を見に行けばいいのだから」とくったくな返事をしてくれました。
 よかった。本当によかった。神様に心から感謝します。
 最後までお読み頂き、ありがとうございました。

 残りの車椅子に係る「びっくりエピード」の続きと、WILLとの出会いを書きました。
 後編先週入稿しました。我田引ですが、面白いですよ。

(この旅での次回のエピソードをお楽しみに)

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