車椅子旅行は楽しい!

パッケージ旅行とは違う、「個人でプランを立て」「自由な発想の」「安上がりな」「車椅子旅行のススメ」
「車を運転している時は、自分が左半身不随であることを忘れられる」と言う、17年前に脳出血で倒れ車椅子生活者となった夫との車椅子旅行は、幸せの宝庫です。

車椅子の遍歴とWILLとの巡り合い(前編)

 去年末から風邪を引き、正月と「初詣」だけはなんとかクリアしてぐずぐず、だらだら過ごしていたら、2025年1月中旬も過ぎてしまいました。このままだとせっかくこのブログの累積アクセス数が一か月前に12万越えたのに、読んで下さる方々の数が減ってしまいます。
 そこで「一念発起」。2025年の最初の投稿は信ちゃん(夫です)の一番大事な「車子」の話をする事に決めました。脳出血で左半身不随の一級障害者になり今年で丸20年になるので、車椅子にまつわる「面白」エピソードには事欠きませんから。
 信ちゃんが最初に病院で乗った車椅子は松永製作所製で、こんな感じでした。

 リハビリ病院から自宅に戻った後、しばらくこのタイプの自走式車椅子を「レンタル」しました。自走式というのは使用者が自分で車椅子を走らせることが出来るタイプです。信ちゃんは左半身不随の一級障害者なので、右足で車椅子を進ませることが出来ます。その場合、図の「5」番。レッグサポートを取り外し、図「6」番の右足用のフットサポートを持ち上げる必要があります。
 その後レンタルを辞めて、ノーパンク・タイヤの中古の自式車椅子を購入しました。この車椅子は「みっけもの」でした。今もまだ健在です。信ちゃんが倒れて今年で20年目ですから、もう我が家に来て19年になります。
 重さですが、今は11kgの軽量タイプがあるのですね。我が家の子はその倍ほどの重さ。今現在はまだ、私一人で車の後部座席に「折り畳んで持って」乗せる事が出来る重量です。ですが、今も使っているヤマハの電動車椅子の重さは約27。一人で持ち上げる事は私には無理なので、「テコの力を活用」しています。後ろのトランクの端に「前輪」を乗せて持ち上げる。それが可能な自家用車は、後部トランクの端が平らな、私の知る限りホンダのフリだけです。他の車のトランクの端はみな、5㎝ほどの縁があるので、「テコの力を活用」する事が出来ません。
 ということで我が家の愛車は、倒れた時に乗っていた黄色いジープから、「黄色のフリード」になり、今は「草色のフリード」です。愛車の車の番号は共に「4560」。最近の若いSound Engineerには「???」かも知れませんが、信ちゃんの年代の方なら「即」納得だと思います。70年代に圧倒的な人気を誇った、信ちゃんがこよなく愛するJBLの名機の番号です。

 初代フリード。「どこか違う?」とお気づきになった方は心がお若い。大人よりも子供が最初に気付いてくれます。ホイールが車体と同じ黄色です。そもそもフリードに黄色はないので、ホンダ2000のペンキを塗って貰った、これは初代の特注品です。
 ところでこの写真は、「何?」ですよね。
 縄文フェチの私たち、2018年に走行キロ数1,700キロの「東北縄文遺跡めぐり」の旅をした時に訪れた「小牧野遺跡」で、特別に遺跡の近くまで車で入る事を許可して下さったのですが、帰路、間違えて低い崖に頭を突っ込み、学芸員の方の車で引っ張り上げて貰った時のものです。その節は本当にお世話になりました。一時はどうなる事かと「冷や汗」ものでした。
 その時の旅程の投稿です。宿泊場所に値段。今に比べると本当にありがたい値段の宿ばかりです。今では、この値段ではまず無理です。

 車椅子の話に戻ります。
 信ちゃんが車椅子生活者になって最初の海外旅行は,ラスベでした。世界でも最大規模の展示会CESに自社のスピーカーを出展するにグループに誘われ、同行する事にしました。CESは1967年から毎年1月にラスベガスで開催され、当時は家電製品主体でしたが現在は、幅広いカテゴリーの最先端技術が集結するテックイベントとして知られています。車椅子に優しく、街全体がエンタテイメント溢れるラスベガスにはその後続けて2回、合計3回訪れています。
 初回は倒れて丁度一年目、2006年の1月上旬でした。その時は、自分の車椅子をから飛行機に乗せてって行くことなど、夢にも考えませんでした。ではどうしたか?わざわざロサンゼルス在住の友人に彼の行きつけの病院で車椅子を借りて貰い、出迎えを兼ね、空港まで持って来て貰いました。今考えると、「無知と謀」は同義語ですね。
 1回目の経験で、自分の車椅子を飛行機に乗せて持って行ける事を知り、2回目・3回目のラスベガスとロサンゼルスの旅、2019年のサンディエゴとマリナ・デル・レイまでの「旅の友」は、日本で日頃使っている自走式の手押し車椅子でした。
 2010年の海外旅行は、車椅子旅行にはクルーズが最適。そう薦められて「ロシア・ボルガ川クルーズ」に決めました。ところが出発する直前、空港近くの山林事でモスクワ空港に飛行機が離着陸出来ず、急遽行き先の変更をせざるを得なくなりました。さて、どこにするか?「ボルガ川クルーズ」を申し込んだ代理店は、ロンドンに住む友人がいろいろ調べみつけてくれたロンドン郊外の個人エージェントでした。そこで行き先を、信ちゃんが若い頃から大好きだったビートルの国スコットランドを列車で回る事にしました。その旅ではまだ、私が信ちゃんの車椅子を必死で押していました。若かったのですね。坂道の多いエジンバラでは正直、本当に疲れました。今あの時と同じルートを車椅子を押して回ったら明日、私、「倒ます」。
 そしてその旅で、ラスベガスに続き車椅子旅行者ならば絶対に忘れてはならない、とても大切な事に気付かされました。それまで車椅子で移動した場所は都内と国内の観光地、それにアメリカの都市数か所です。それらの歩道はまずコンクリート整備がされていて、いわゆる「ガタガタ道」はほとんどありませんでした。ヨーロッパのような「石は皆無です。なのでそれまで、座り心地をよくするというよりも荷物を軽くしたくて、パジャマを布袋に入れて、備え付けのクッションの上に重ね、その上に信ちゃんを座われせました。なので、以前に「痔」で苦しんだ経験はあるものの、信ちゃんが車椅子旅行で「痔に舞い戻るかも、などと考えもしていませんでした。
 ところが、ところが・・・ロンドン、ウェールズに続き、お目当てのリバプールで信ちゃんは「お尻が痛い」と言い始めたのです。リバプールに続きグラスゴー、エジンバラ。どこも歴史豊かな街であり、石畳に溢れる街でした。日に日に「お尻の痛みが増す」と言う信ちゃん。それでもなんとか帰国まで持ちこたえてくれました。
 もちろん帰国して最初にした事は、信ちゃんが主」にならないためのクッション探しです。答えはすぐみつかりました。クッション一つなら借りる事もないだろうと思ったのですが、あまりの値段(約5万円)にしり込みし、レンタルする事にしました。その後、中古品をみつけて2つ目を手に入れました。名前はVarilite(バリライト)アメリカ・シアトルにあるCascade Designs.Incの医療部門が開発・製造しています。

 信ちゃんは今、バリライトがないと「生きて行けない」と言い切りますが、私は新しい優れたクッションが必ずいつか市場に登場するだろうと、そこそこまめに様々なクッション・サイトをチェックしています。ですが、今の所は当分Variliteさまのお世話になるようです。


 Yamahaの電動車椅子を使い始めたのは2011年の初めだったと思います。何故それまで使わなかったのか。どうして使う気になったのか。その辺りはまったく「」と記憶から消えています。ただ使い始めて、初めて車椅子を押さずに外出や旅を楽しむ事が出来るのが、どんなに楽で嬉しかった事はよく覚えています。ただ、「世の中そんなに甘くない」とは良く言ったものです。その通り、「楽あれば苦あり」。電動車椅子になってからの旅行、特に海外旅行では、車椅子絡みの今だからってせるひやひやもののエピソードを、いくつも経験させて貰いました。


(エピソード:その
 Yamahaの電動車椅子とのめての海外旅行は前年、モスクワ空港近辺の山火事でキャンセルになった2011年の「ボルガ川クルーズ」。レンタルした車椅子を持って行きました。まずロンドンに飛び、それからモスクワへ。次に手配して貰った大型の車で、郊外にあるクルーズ船の発着所に向かいます。船の中では毎晩いろいろな企画があり、食事もまあまあ、モスクワの赤の広場を始めとして、有名な観光地もすべてセットされていて、あらためて「クルーズ」旅の気楽さを実感しました。「あらためて」と言うのは以前、まだ信ちゃんが左半身不随の一級障害者になる前、お母ちゃん(継母)と3人で「ナイル川クルーズ」を楽しんだ良い思い出があったので・・・。3年前の2022年の「ドナウ川クルーズ」も大いに楽しませて貰いました。
 クルーズの後、サンクトペテルブルクに5日間滞在し、憧れの「エルミタージュ美術館」の他、主要な観光名所をひたすら歩いて巡りました。街は有名な大聖堂に溢れていましたが、残念ながら聖堂内には車椅子では、入れませんでした。疲れるとめぼしいホテルに入ってロシアンティーを飲みました。トイレを拝借するために。そんな中の一つに、エスカテリーナ女王が伊勢国の商人・大黒屋光太夫を謁見した時に出された紅茶が飲めるホテルがあると聞き、立ち寄りました。天井がガラスになっている壮大で華麗な宮殿のようはロビー。アフタヌーンティーの値段を見て一瞬ひるみましたが、2人分を3人で分ける事を了解して貰い、優雅な午後を過ごしました。ホテルの名前は失念しましたが、今もはっきり覚えている事。それは、ホテルに車椅子用の大きなトイレがあったことです。6畳一間ほど、またはそれ以上のひろ~いトイレ。その時、信ちゃんと思い出しました。エスカテリーナ王が車椅子生活者だった事を。
 さて、明日は日本に帰国すると言う日の夕方、ホテルの入り口の何かにひっかけたのか、後部車輪してしまいました。一瞬どうしようと落ち込みましが、元来「ノー天気夫婦」の私たち。明日の移動はホテルからタクシーで空港に行くだけ。空港に着けばなんとかなる。深く悩んでも仕方がない。なので最後の晩餐を軽く済ませた後、早めに寝る事にしました。そして、就寝の電気を消そうとしたその時、ドアを叩く音がしました。仲良くなった若いボーイ君が立っていて、たどたどしい英語で「自転車屋の友人に話をしたら、直せるかも知れないと言うので、一晩、車椅子を貸して下さい」。そう言われてどう対応しよう・・・と、私が迷う暇もなく信ちゃんが言いました。「ありがとう。どうぞよろしく」。
 翌日、朝食の時間になった時、またドアを叩く音がしました。ドアを開けると昨夜のボーイ君が「直りました」と、嬉しそうにほほ笑んでいました。仲間を集めてみんなとワイワイいいながら知恵を絞り直した、というのです。「本当にありがとう。いくら払えばいいですか?」と聞いても笑って手を振るだけです。前夜に宿泊代は清算済みだったのでその時、私たちの手元にはタクシー代と少しのルーブルと、数枚の100ドル紙幣だけでした。
 私が100ドル紙幣を1枚出すとボーイ君、最初は躊躇しているようでしたが最後には、満面の笑みを浮かべて「ありがとう」と言い、受け取ってくれました。
 初めての電動車椅子での海外旅行。慎重な方ならこの時点で、「電動車椅子のなどをいろいろ考えるのでしょうが、私たちはいつもパターンで「喉元過ぎれば熱さを忘れ」帰国して二日後にピカピカの電動車椅子を届けて貰い、パンク事件を忘れました。


「ボルガ川クルーズ」の翌年2012年には2度(初回は台北中心の社員旅行、二度目は高雄まで足を伸ばし、お母ちゃんと3人で)台湾に行き、初めて北海道車椅子ドライブ旅行に行きました。そしてその後の2年間は、それまで行きたい行きたいと願っていた国内旅行の実現に専念しました。2014年に訪れた「石見銀山」は、TVの旅行番組で見た「夜行列車の車椅子専用部屋に乗りたい」一心から実現した山陰への旅のハイライトでした。1列車に2部屋しかない夜行列車のバリアフリールームの切符をどうやって手に入れたか。興味が湧いた方は、この投稿をお読みください。

 さて、3年ぶりの海外旅行先はニュージーンドでした。TV番組でNZの北島には「車椅子でも入れる地下洞窟」がある事を知った信ちゃんが、「日本では、車椅子で洞窟は絶対無理だよね」と言った時から、私の大好きなネット・ブラウジングが始まりました。その結果、NZは車椅子生活者が暮らしやすい国だと納得。半年近い準備の後、2015年の8月18日から9月4日までNZを満喫しました。列車とバスを使っての旅でした。
 無事、羽田空港に到着。と、思ったら、(エピソード:そのが待っていました。 
(中編に続く)

(2015年8月 NZ北島ルアクリ洞窟の入り口:クルクル回りながら、下に降りて行きます)

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