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今日は、いつもと趣きの違う事を書きます。いつものように読んで頂ければ幸いです。
信ちゃん(夫)が脳出血で11年前、左半身不随の第一級障がい者となって以降、それ以前と比べると、その10年ほど前にこの世を去った親友の事をよく思い出すようになりました。
生きていれば彼女に信ちゃんの面倒を押し付けて、もっと楽が出来たのに、などと調子のよい事を考えながら・・・。
NYで順調に仕事をしていた彼女が倒れたのは、ある年末、日本に戻っていた時でした。
突然道端で倒れ、救急車で病院に搬送されそのまま入院。子宮筋腫と診断されて、年が明けてすぐ、手術を受けました。
2月に入り、レントゲン写真に不穏な影が見えるので細胞の生理検査をすると伝えられ、1か月後、肉腫
と診断されました。青天の霹靂です。
それから7月の再入院の日まで、私は彼女と信ちゃんの3人で布団を並べ、川の字となって寝ました。二人で脳神経外科医の友人、新橋の癌センターなど、さまざまな病院を周り、どこでも、その年の夏は越せないだろうと宣告されました。
肉腫と言っても、延命の方法はあるだろうと、たくさんの人に会いました。
共通の友人と武蔵野にあるホスピスを訪問したこともあります。
親友は7月中旬に息を引き取りました。
亡くなる最後の一週間、彼女の病室にはいつも誰かが居ました。担当医が「ベビーブーマーの仲間は、本当に結束が強いね。ほかの世代とは違う」と、笑い声も上がる病室に来ては、しばらく私たちと立ち話をして帰りました。
川の字になって寝たのは、一人で寝るのは「怖い」という彼女の願いでしたが、それが最後の最後まで続けられたのは、次のただ一点・・・彼女は一度も
「ど・う・し・て・私が肉腫にならなければならないの。私は死にたくない」と言わなかったことでした。
広島出身の彼女の両親は共に被爆者だったので、「何かその事が彼女の病気と関係がありますか?」と医者に聞いても、当時は一笑にふされました。
福島以降、「胎内被曝」や「被爆二世」の事が話題になることが増えました。
亡くなった「村山聖棋士」について、母上が広島出身だと聞き、影響があったのかなあと思っています。
あの時親友に一度でも「死にたくない」と言われていたら、どう答えてよいか分からず、あれほど最後までアッケラカンと私は、彼女の側にいられなかったでしょう。
信ちゃんも「ど・う・し・て・僕が、半身不随に」と、グチをこぼしたことは一度もありません。エライ。ですが、やれここが痛いから揉めだの、寒いからヒーターを早く入れろだの、勝手な事を言いまくっています。時々、はったおしたくなります。でも、私と信ちゃんとどちらが大変かと言えば、それはもう車椅子の信ちゃん。そう考えると原則は引っ込みます。常識は引っ込みます。道理は引っ込みます。理屈は引っ込みます。
そして私は次の車椅子旅行は何処にしようと、いろいろ楽しい思いを巡らします。
蒸気機関車のワットおじさんの銅像。グラスゴーの広場にて
(2008年8月)