10回目の北海道旅行なのになぜこんな苦労を!(中編)
国内でも国外でも、旅先の朝はいつも自宅と同じリズムで過ごすようにしています。
起床は7時。信ちゃん(夫です)はまずトイレに直行。その後、BSで朝ドラを見ている私を横目に、のんびり自分のペースで一人で着替えます。朝食を終えて部屋には、8時半までに戻るようにしています。10年以上続けている日課の二人で考えた首・手・足の順番の「朝の体操」(所要時間約20分)を9時15分ほどまでには終えたいので。その後、10時のチェックアウト時間に間に合うように出発前の最後のトイレに行き、信ちゃんをロビーに送り届けます。急いで部屋に戻り、忘れ物はないかを確かめた後、荷物を持って直接駐車場の愛車フリードに運びます。今のフリードはモスグリーンの2代目。荷台の後部がフラットなので前輪をまず荷台の縁に乗せてテコの応用で持ち上げれば、30キロ近いヤマハの電動車椅子でも、私一人で車になんとか乗せられます。歳と共に厳しくなっていますが。
荷物を乗せたらロビーに戻り鍵を返し、待っていた信ちゃんとフロントに最後のさよならの挨拶の手を振って次の街へと出発です。
駐車場を出て右折をしたすぐ左に、前日の夜に素敵なおかみさんに出会った居酒屋があります。外に「タコ飯テイクアウト出来ます」の旗がはためいていたので昨夜は即、まだ開店前の店内に入りました。注文をして待っている間、壁に張られ調理師免許の名前からおかみさんの名前が「美智子」だと知りました。上皇后さまと同じ漢字です。「素敵な名前ですね」と声をかけると、忙しく手を動かしながらおかみさんが答えました。「美智子さまのご成婚後はそれまで誰も気にしていなかったのに、随分からかわれたわ」をきっかけに、「32年前に寿司職人だった主人を亡くし、思い出の店を離れたくなくてこうして居酒屋を続け来たの」との話を聞かせて貰いました。合間に私も、信ちゃんの話を聞いて貰いました。
支払いになり手渡されたタコ飯は、2段になっていました。「これはご主人へのプレゼントよ」。そこには小魚の煮つけに漬物。夕顔の煮びたしと、マスカットが3粒きれいに収まっていました。ホテルに戻り、信ちゃんと感謝しながら美味しくタコ飯とプレゼントを食べました。
昨朝店の前を通ると少しドアが開いていたので、車から降りて声をかけると、おかみさんが奥から「は~い」の返事と共に顔を見せました。「今から出発します。昨日は本当にご馳走様でした」。店からわざわざ歩道まで出ておかみさんは信ちゃんの顔をしっかり見つめ「いつまでも元気で居て下さいね」と素敵な笑顔で声を掛けて下さいました。車椅子の旅はいつでもこんな、素敵な出会いをプレゼントしてくれます。
さて、留萌から天塩を目指すオロロン街道の最初の街は「小平」です。東京の武蔵野にある小平は「こだいら」と読みますが、ここは「おびら」と読みます。
2016年に「留萌郡小平町鬼鹿海岸」を訪れた時には陸側に、大きな旧花田家(鰊)番屋:https://www.town.obira.hokkaido.jp/kanko/detail_sp/00002502.html 海側には黒板ほどの大きさの黒い墓石が立っているだけでした。そして偶然その前で、墓石に手を合わせ祈る着物の喪服姿の老女と、経を唱えるお坊さんの二人を見かけました。番屋の受付の方に話を聞くと:
の遺族の方だとのことでした。「毎年この時期になると、必ずお参りに参られます」
今回の鬼鹿海岸には新しく道の駅が誕生し、黒い墓石も様変わりをしていました。道の駅おびら鰊番屋:https://hokkaido-obira.com/michinoekiobiranishimbanya/ はにぎわっていましたが、旧花田家番屋を訪れる人はまばらでした。時代なのでしょうが、さびしいです。
次に甘えび漁獲量日本一の羽幌で念願の甘えび丼(なんと甘えび34匹)
を平らげた後、待望の「天塩温泉夕映」に向かいました。
「夕映」には楽しい思い出があります。50年ぶりの大雨に振られ「その夜予定していた宿」から突然電話がかかり「宿の前が水浸しで車椅子では入れない」と連絡が入りました。2014年の8月下旬の事です。
さあ、どうしよう?丁度、天塩町の手前を走っていました。そこでiPadminiで即、天塩と検索。一番近くで見つかったのが「夕映」でした。今は改装されて1階に部屋がありますが、当時は部屋はすべて2階。「階段の左右に手すりがあるか」と聞き、「ある」との答えに当時まだ体力に余裕があった信ちゃん(今は無理でしょう)と相談。「2階まで車椅子を運んで貰えるのならなんとかよじ登る」事になりました。
「夕映」の宿の青年は本当に優しく快く、信ちゃんを屋根のある玄関で降ろすと大雨の中、車を駐車場まで移動してくれました。また、重い車椅子も2階まで私と信ちゃんが「階段で格闘」している間に運んでくれました。
それまで「天塩温泉」は「てしお」という読み方さえ知らない未知の温泉でしたが、温泉から出た私。信ちゃんに急いで「腕と顔」を触って貰いました。「あれ、すべすべだ」。信ちゃんは何度も私の腕を触って楽しそうでした。
そうなのです。天塩温泉は北海道でも有数の温泉として知られ、帰宅してから偶然見た「マツコの部屋」で、日本中の温泉巡りを楽しむ父娘が「私たちの一番のお気に入り」と紹介していました。もちろん今回も天塩温泉の湯に「肌をすべすべ」にして貰いました。
「夕映」という名の通り、ゆったりソファに腰を掛けて太陽が沈む「夕映」を楽しめるロビーが、建物の中央にありました。遠くには利尻富士のシルエットが見えます。私たちはそこに結局ウトウトしながら2時間近く座って、太陽が沈むのを見つめ続けました。
翌日はいよいよ40号線へと向かいます。その前に縄文フェチの私たち、天塩町にも 川口遺跡 | 天塩町観光協会 という縄文遺跡があるのをパンフレットで発見。少し寄り道になりますが、寄ることにしました。寄ってよかった。雨が降っていたので車から降りず、森の入り口を見ただけでしたが、そこはいつも感じる「縄文の風」が吹く林のようでした。
40号線は、私が想像した通りでした。これまで走った北海道各地の道とは異なり、穏やかで平坦な道が続きます。信ちゃんは私から見ると40号線のように、「まったく変わらない景色が永遠に続く」と思うような道を、楽しそうに走ります。「どこが面白いの?」と聞くと「木々の種類、土の色、遠くに見える山の形。みんな少しづつだけれど変化する。それを見ながら走るのが楽しい」
このような答えは、脳出血で19年前に倒れ左半身不随になる前から変わりません。わずかな変化を楽しめる信ちゃんの方が幸せなのか、わずかな変化に反応せず、隣でウトウトする私の方が幸せなのか、答えを出す必要はないと思っています。
目指す宿、中川町公共温泉ポンピラアクアリズイングのある「中川町」の名前はなぜか40号線に入っても標識には「音威子府」の次が「名寄」そして「士別」。最後まで登場しませんでした。なので、この標識を見つけてほっとしました。
「ポンピラアクアリズイング」という不思議なネーミング。アクアは「水」だと分かりますが、宿を前にして、ますます好奇心が掻き立てられました。
パンフレットを読むと「ポンピラ」はアイヌ語で「ポン(小さい)・ピラ(崖)」という意味で、最後のリズイングは、「リラックス」と「リフレッシュ」の2つの「り」を合わせた「中川町御用達の造語」らしいのですが、あまり深く考えない事にしました。
宿泊者の大半が近くの工事現場の方たちでした。どなたも気持ちが良いほど褐色に日焼けしています。若いグループは楽しそうに会話を交わして夕食を食べていましたが、50代と思われる管理者グループ6人。初めから終わりまでまったく言葉を交わさず席を立っていきました。こんな他愛もない人間観察も、私には旅の楽しみです。
ホテルを出て中川町の道の駅で「ななつぼし」が5キロ2,756円で売っていたので、2袋買いました。今思えばもっと買えばよかった。札幌ナンバーの客の多くも購入していました。
実は信ちゃん、北海道に発つ前から便秘で、旅の間は一度も排便が出来ませんでした。ですが、尿意と共に便意も感じるらしく、通常、バリアフリールームでない宿では夜は「尿瓶」が活躍するのですが、今回はどこの宿でも、夜中に2,3回は一階のバリアフリーのトイレまでエレベーターで往復しました。本人も辛かったでしょうが、私も旅の終わりには、ほとほと疲れ果てました。小さなエレベーターだと泣けてきます。
中川町の次の宿はサフォーク羊で有名な「士別」です。2度目の訪問になります。その前に、今回は私が特に楽しみにしていた「名寄」があります。「名寄」は全国的にも有名はもち米の産地です。
信ちゃんは旅先でも都内でも、ガソリンが半分になると必ず給油します。名寄の道の駅の直前に丁度ガソリンスタンドが目に留まったので、即、入りました。
今回の旅、辛い事も多かったのですがガソリン価格については大当たり。最初に給油したところは1L163円。このスタンドではどうしてこんなに安価なのかは不明でしたが、なんと161円でした。小柄な男性店員の方が椅子に乗って、フロントガラスを丁寧に拭いて下さいました。お米の事など何も分からない私ですが、なんとなく気になったので「この辺りのお米はみな、少し背が低くありませんか」と聞くと、「僕はここの米しか知らないので分からないですが、ここの米はすべてもち米です」と誇らしげに答えてくれました。今、慌ててググってみると、もち米は70㎝以下、通常米は80㎝以上と書いてあります。私の観察力も捨てたものではありません。
名寄の駅の道でお昼を食べたのですが、驚き(でもないか)のメニューをメニュー表に発見しました。焼き餅1つ100円で、1つから注文を受け付けると書いてあります。こわごわまず、1つ注文しました。あまりにおいしかったので、また注文してしまいました。小皿の醤油の他に、「特製焼餅用醤油」の小瓶が添えられていました。
道の駅で売っていたもち米。2キロ724円と手頃な値段だったので、お土産用も含めて5袋買いました。普通の米に少し混ぜると「米の甘味が増しますよ」と教えられました。まだ試していません。
名寄の次は、サフォークの里・士別です。訪問は2度目ですが、前回は宿泊はしませんでした。今回の士別グランドホテルは可もなく不可もないホテル、と言いたいところでしたが残念ながら入り口のスロープがきつすぎて、私には歯が立ちませんでした。男性スタッフの方が飛んで来て下さり、事なきを得ました。
あれ?電動車椅子ならば多少のスロープは登れるでしょうに。ですよね。そこです。
「前編」で私、書きました。小さなエレベーターを前にして、
「私は2つ大きなミスをしました。今考えると、信ちゃんが19年前に倒れ、その数年後に電動車椅子を使用するようになって10年以上になるのに、次の二つの事を思いつかなかったのです。
一つはその後、自分で気づきました。
二つ目は東京に戻り、車椅子の点検に来た女性の方に教えられました。ですが、これもこれまでの経験から、自分で気づいてもいいはずだったと、悔しいです」と。
「最初の一つ」に気付いたのは、名寄の道の駅でした。それまで信ちゃんがどこでも自由に一人で動けるようにと、ホテルでも道の駅でも車から電動車椅子を出し入れして来ました。最初の数年ははそうではなかったのに。
名寄の道の駅に着いてフリードから車椅子を降ろそうと後部のハッチを上げ、ふと考えたのです。そして運転席の信ちゃんの所に行き、聞きました。「手動の車椅子でもいい?」「いいよ」。旅の途中の公園や展望台で、二人で並んでゆっくりお昼を食べたりウトウトしたりする時のために、旅行には必ず、私用の手動車椅子がフリードの後部に予備のタイヤと共に積んであります。今回ももちろん。ですがその時まで、手動式を信ちゃんを乗せて使うという発想は、まったく湧きませんでした。
以後、道の駅でも高速のサービスエリアでも、私が押す「手動式車椅子」を使いました。「手動式」は約20キロ。電動の上げ下ろしのように車の後部の縁を使わなくても、一人で持ち上げる事が出来ます。今のところは。後何年、続けられるかは謎ですが。
「後編」に続きます。
ほんの数年前までは車椅子で新幹線に乗る時には東京駅地下構内にあるこの通路を必ず通り、エレベーターでホームまで行きました。懐かしいです。私たちが大好きな通路でした。今は新幹線入り口までスロープが出来たので、一般の方と一緒に混雑する雑踏の中を進まなければならず、移動に苦労します。東京駅は嫌いです。



