車椅子旅行は楽しい!

パッケージ旅行とは違う、「個人でプランを立て」「自由な発想の」「安上がりな」「車椅子旅行のススメ」
「車を運転している時は、自分が左半身不随であることを忘れられる」と言う、17年前に脳出血で倒れ車椅子生活者となった夫との車椅子旅行は、幸せの宝庫です。

車椅子から僕たちは、新しい人生を貰った(1)

 一か月以上、ブログを更新できませんでした。珍しい事です。風邪で体調を崩し、信ちゃん(夫です)と二人でぐずぐずしていた事もありますが、車椅子旅行を楽しんでいる私たちの、今の幸せな気持ちをブログでみなさんに伝えたい。そう思いはするものの、に自分の気持ちを表現する文章が、考えても考えても思い浮かばなかったのです。


 昨日、私をそんな風に悩ませたのまことちゃんから

電話がありました。「来週は春一番が吹くんだって。暖かくなるらしいから、前回のリベンジで、また銀座に行こう」そう言った後に、彼女は付け加えました。「ブログなんだけれど、あなたたちはシンディー・ローパー型なのだから、余計な事を言わずにストレートに書けばいいのよ」


 そうか、そうなんだ。
 しばらく忘れていた大好きだったシンディー・ローパーのメロディーが、次から次へと頭に浮かびます。


 彼女が世界的に名を知られるようになった最初の大ヒット曲は、「タイム・アフター・タイム」。しっとりとした穏やかなメロディーが、印象的です。

 そして、そのすぐ後にやはり世界的に大ヒットしたのがこの曲です。
 「ガールズ・ジャスト・ウォンア・ハブ・ファン」

Cyndi Lauper [Japan 1996] Medley シンディ・ローパー(ヒッパレ・ライブ)
 前作と曲調がガラリと変わり、軽快なリズムに乗り、タイトルをそのまま繰り返し歌っています。「女の子達はただ楽しみたいだけ」。見事なまでにあっけらかんと。
 「理由などないわ。ただ楽しみたいの」と人前で言い切るのは、なかなか勇気がいる。まだそんな時代でした。ですが、そう言ってくれる人を、女の子達は待っていたのだと思います。
 「開き直りだとか「自分勝手だ」とか、周りはいろいろ言うけれど。いいじゃない楽しみたいだけなのだから。
 この人の存在が、レディ・ガガ: 

の登場に寄与したと、私は密かに思っています。


 さて、2005年1月15日の2時頃に椅子から崩れ落ち、救急車で病院に搬送された信ちゃんは脳出血と診断され、2月12日に、希望していた(というか、私にとって通いやすい)リハビリ病院に移り、左半身不随の1級障がい者と認定され、車椅子で7月20日に退院しました。
 信ちゃんは今でも誰にでも、あの入院生活はかったと言います。
 最初の2週間は3人部屋で、トイレに大苦労。その後も、2か月ほどはいかにトイレが大変かを、見舞客が来るたびに熱意を込めて話し続けていました。
 その後、6人部屋に移りました。


 退院後の見通しは、入院当初まったくありませんでした。信ちゃんはともかく、私は不安でした。本来、行きあったりばったり夫婦でしたから老後など、ほとんど考えた事がなかったのですが、突然、何をするにも
 信ちゃんは車子に乗らなければならない。 
という現実を前に、「私たちの老後はどうなるのだろう」という思いが、頭から離れなくなりました。
 で・す・が、退院する頃にはそんな強迫観念は消え、との生活をどう生きればいいのかの方向性が見つかり、その幸せが今に繋がり、「車子旅行は楽しい!」に繋がっています。


 人は歳を重ねて行く中で、気付かぬうちに自分を自分が作ったルールや常識の中に押し込め、物の見方・視線の幅を狭めて行く。若い頃のように自分の枠から飛び出て、がむしゃらに新しい挑戦へと進む事はほとんどない。安定はしますが、変化がないので進歩のスピードも緩みます。


 ところが・・・・!
 入院して1か月半ほど経ち、待ちに待った週一回のがおりました。そこから近くのショッピングセンターに出かけたり、私の誕生日に一泊旅行をしたりと、病院の外の一般世界での経験を入院中から重ねて行きました。そして自分たちが受け入れてきたルール常識の中では、これまでのように楽しく生きられない事を繰り返し、嫌と言うほど思いらされました。


 常識からはみ出して、どんどん新しい活動場所を開拓し、新しい対応方法を会得して行かないと、「あれも出来ない。これも出来ない」と、出来ない事ばかりが続き、苛立ちが募るばかり。
 それでは駄目、駄目、駄目駄目・・・・・!です。
 その結果私たちは車椅子おかげで、新しく生きる場をどんどんと広げて行き、自分たち勝手な新しい法則を編み出し、「世の中を事なく」歳を重ねて来ることが出来ました。


 信ちゃんの病院での毎日は、一日2回のリハビリ時間以外は、実にのんびりしたものです。朝寝をしたり、昼寝をしたり、廊下に置かれていたTVを見たり。


 病院でお会いしたみなさんの職業は千差万別でした。入院しなかったら私たちにはきっと、そのほとんどの方の職業と縁がなかったでしょう。
 ホテルのコックさん、路線バスの運転手さん、香港の北の広州で倒れたシステム・エンジニア、書道家、商店街の会長だった布団屋さん、ラーメン屋さん、床屋さん、コスタリカのホテル経営者、サッシ・メーカーの部長さん・・・・・
 ちゃは、みなさんとすぐに仲良くなり、それぞれの入院の経緯とこれまでの人生について話し込んでいました。時間はたっぷりありましたから、自分の話もたっぷり聞いて貰いました。
 毎日、興味深い話を聞かせて貰い、リハビリによって、自分の毎日の変化が感じられる入院生活は信ちゃんにとって、楽しい楽しい、ワンダーランドだったに違いありません。


 私の方は、信ちゃんと社会に出る事は、新しい情報・知識がなければ納得する体験は出来ないと考えるようになりました。好奇心と新し物好きの気持ちが人一倍だった私には、それは「腹立たしい」事だったり「面倒な」事だったり、そのほかいろいろありましたが、それ以上に発見をくれました。


 私の誕生日のお祝いをするのだと、入院してまだ1か月半ほどの4月の頭、横浜みなとみらいのホテルに1泊旅行を計画しました。当時の名前はパンパシフィック・ホテルでしたが、今チェックしたら、横浜ベイホテル東急と名前を変えていました。あれからもう少しで13年。時が経つのは早いです。

 その顛末は、次回。


 2007年1月に宿泊したラスベガスの「バーバリー・コースト」というホテルもオウナーが変わり、現在は「ビルズ」という名前だそうです。その顛末はこちらで。
http://www.lvtaizen.com/hotel/html/b_coast.htm
 部屋数が1,000単位のラスベガスにあって、部屋数はわずか約200室。ラスベガスの名所、ベラージオ・ホテルの噴水ショウが、部屋によっては部屋の窓から見られる。値段も安い。場所もセンター。ですが私には何よりも、車椅子を押す距離が短いのがありがたかったです。

(2007年1月 ラスベガス)

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