「進化は常に非常識から生まれる」
最近、我が意を得たりと思わずほくそ笑んでしまうお気に入りフレーズです。
「進化は常に非常識から生まれる」
タイヤのCMで我らが福山雅治さんが毎日何度もTVの中で繰り返しているので、みなさんも目に、耳にされた事と思います。
「非常識」を辞書で引くと、
「常識」を欠いていること、とあります。
では、「常識」とは何か。再び辞書をひも解くと:
「一般の社会人が共通にもつ、また持つべき普通の知識・意見・判断力」だそうです。
さて・・・話は変わり・・・。
どのような経緯でこの「天才」という本を手にしたのか、まったく覚えていませんが、学生時代でした。その内容に、驚愕しました。
ニーチェ、ハイネ、ボードレール、シューマン、モーパッサン・・・・。ヨーロッパが誇る、文学・音楽の天才たちはみな梅毒に冒されていた。マルクスもそうである。ニーチェは、梅毒で精神異常となる2年くらい前から唐突に創作意欲がわいてきて、1年間に27冊もの本を書いた。常識や権威が定めるまっとうなレールの上にある思考の範囲を何らかの理由で逸脱して初めて、人は、天才と呼べる才能を発揮する。
言い換えれば、一般の社会人が共通にもつ、または持つべき普通の知識・意見・判断力の範囲で生きている限り、新しい発見はない。進化はない。というのです。
人並み以上の才能を発揮したいが、そのために梅毒にはなれない。精神異常も嫌だなどとブツブツ。ブツブツ。ブツブツ。ブツブツと私は本を読み、つぶやきました。十分に本の内容を咀嚼出来たのか、怪しいものです。
ただ、それまでの世代とは異なり、黙って「既成のルールや権威に従う」のではなく、「ルールを破り」「権威を疑う」ようになっていた平均的なベビーブーマー世代の私は、「常識的でまっとうなレールの上は出来るだけ避けて歩いて行く人生もあり」と考えるようになりました。
いわゆるメインストリームではない生き方を心がけて来たからだからでしょうか。信ちゃ(夫)が車椅子生活者になって、「あれは無理、これは無理」「あれはダメ、これはダメ」「そこは入れない、ここも入れない」。無理・ダメ尽くしの、八方ふさがりの城壁に囲まれた生活に放り込まれた時、その壁をそのまま受け入れず、壁をボコボコ叩いて亀裂を作り外に這い出て、車椅子旅行を楽しんで来ました。
4年前のGWのエピソード
東京・銀座のビルの地下のレストランに行くことにしました。警備員さんは、平然と「このビルにはエスカレーターだけです。エレベーターはありません」と言います。
「何を言っているのですか。大きなビルなら従業員用のエレベーターは必ずあるでしょう」
「お客様にはご遠慮願っています」
「そこを使わせて頂けなければ、私たちは地下のレストランには行けません」
「上司に聞いて来ますので、しばらくお待ちください」
警備員さんが戻るのを素直に待っていられない私たち。近くの店の従業員に、「従業員用のエレベーターはどこですか?」と尋ねてエレベーターの場所を確かめ、「一般出入り禁止」と書かれたドアを開け、地下のレストランで美味しいビビンバを食べました。
車椅子生活者は、一般の社会人が共通に持つ普通の知識・意見・判断力の範囲内のルールに従い守って生きていたのでは、ビビンバもおちおち食べられません。創意・工夫で日常の中に発見があり進化がなければ、ビビンバは食べられず、息が詰まります。
ん・ん・ん?
常に創意・工夫を試みている車椅子生活者や障がい者は、自然に普通のルールを超えてしまう。つまり、車椅子生活者や障がい者は非常識の土壌の上に、最初から立っている。そこで、私たちの新しい挑戦、新しい行動はすべてが進化に繋がる・・・の・で・は?
少々我田引水ではありますが、このような考え方、あながち間違いではないと思います。
そんな私の気持ちを書いたのぶこちゃんのエピソードです。
2005年1月15日に信ちゃんは脳出血で倒れて、左半身不随の身体一級障がい者になりました。もうすぐ13年目を迎えます。信ちゃんが言うように「干支が一回り」しました。
長いようで、あっと言う間の12年間でした。
車椅子生活になってから、発見した事、進化した事は数多く、いずれもとても興味深く楽しい体験です。
近々、そのリストを作ってみます。楽しみです。
なんたって「進化は常に非常識から生まれる」のですから。
5月の那須高原。今は雪で真っ白でしょうね。
(2010年5月)
