車椅子旅行の贈り物: のぶこちゃんの一言
前置きがいつものように長くなりますが、ご容赦を。
信ちゃん(夫)が脳出血で倒れる10年近く前。友人の・・・
「仕事で手話が必要だと思うので今度、手話教室に行くの」の言葉に、非日常的な事が大好きで、時間の自由が比較的効く私は「一緒に行く!」と叫びました。
仕事が忙しかった友人はすぐに教室を辞めましたが、私は続け、そこで養護学校の英語の先生をしていた「あっこちゃん」に会いました。
英語の先生のあっこちゃんが・・・
「日本語手話だけではなく、ASL(アメリカン・サイン・ラングエージ)手話を習いに行こうと思うの」(NPO法人日本ASL協会 » アメリカ手話を学ぼう!)と言うのを聞きつけ、またまた私は「一緒に行く!」と叫びました。
ASLのクラスで出会ったのが聾者ののぶこちゃんです。
そして・・・のぶこちゃんの何気ない一言がなかったら、私たちの車椅子旅行はなかった・・・かも。
市川市に住むのぶこちゃんは名産のトマトをひと箱持って、脳出血で倒れた入院3か月目の信ちゃんを見舞いに来てくれました。
病院の外に備え付けられた自動販売機の前で、ベンチに座ったのぶこちゃんと車椅子の信ちゃんが楽しそうに話しています。私は隣のベンチでぼーっとしていました。なので、二人の会話を正確には覚えていません。信ちゃんによると、何の前ぶれもなくのぶこちゃんに聞かれたというのです。
「ところで信ちゃん、いつ車の運転を再開するの?」
それは、信ちゃんには青天の霹靂でした。
倒れてまだ100日ほどしか経過していません。車椅子から自由に立ち上がれませんし、外に出るのにも介護者が必要。ですので信ちゃん、車を運転することなどまったく考えていなかったそうです。
「運転なんて出来るのかなあ?」
「右手も右足も動くんでしょ?」
それからの信ちゃんの頭の中は、車の運転の事一色になりました。本人の言い方を借りれば「僕、頭が一つしか働いていないから、一度に、一つの事しか考えられない!」
その後、別の事が信ちゃんの頭の中に侵入し、しばらく運転の話は立ち切れになりましたが、頭の奥底にはずっと残っていたようです。
運転をするようになったのは、それから一年近く後。年が明けた2006年からでした。
信ちゃんの運転する車の隣に座る事。それはオーバーではなく、「死」とは言いませんが「怪我を覚悟」することでした。
今も決して完全ではありませんが、信ちゃんの左の視野がまだ十分でなかった最初の頃の私は、ひたすら助手席で信ちゃんの左目となり、しゃべりまくっていました。
「ほら、電柱」「自転車が来る。あと10Mくらい」「左手から車が顔を出している」
私の言葉を聞いていたのか、聞いていなかったのか。そもそも、聞く余裕があったのか。確かなのは、信ちゃんの目になり話すこと以外、例えば「あら、素敵なパン屋さんがあるよ」などと声をかけると信ちゃんは
「話しかけないで! そんな余裕ない!」と叫びました。
また、ホーンはもちろんの事、通りすがりの子供の泣き声にも、左手首が「びくっ」となり、ぽーんと肘が曲がりました。
今は?
時折、「ちょっと黙っていて」と言われることもありますが、私は気にせず、普通にドライブを楽しめるようになりました。左手速報は今も変わらずですが。
「左から自転車が来ているよ!」
のぶこちゃんとは彼女の母上も一緒に2008年、ラスベガスに行きました。帰路に寄ったロサンゼルスの友人の家で、友人が何時間もかけて焼いてくれたターキー、美味しかったなあ!
(2008年1月)